2014年6月16日

ないものの(頭の中での)存在

科学者を、真理という大海の海岸で珍しい貝殻を集めて遊んでいる子どもに例えたのは、アイザック・ニュートンだった。
手元にもし一つの貝殻があれば、それを眺めて模様についてあれこれと考えているだけで、時間を過ごすことが出来る。
時間というものは、そもそも常に現在しかないのだという考え方もある。

小津安二郎の映画「宗方姉妹」で、姉役の田中絹代は長年夫と夫婦関係を続けながらも別の男性をずっと思い続けてきた。その生活にそれなりに満足をしていたけれど、耐えられなかったのは夫の方だった。紆余曲折があって、とうとう夫と別れてその男性と結ばれようかという時、突然夫が他界してしまう。

夫の死によってその男性と結ばれることを断念する。この映画の最後で田中絹代は妹役の高峰秀子に言う。
夫が死んでから、ずっと夫から見られているような視線を感じている。夫とはずっとうまくいっていなかったのだが、死んではじめて近くに感じられるようになった。夫が死んではじめて本当の夫婦になれたような気がする。これからはこの夫(の視線)とずっと一緒にやっていく、と。

あるものは頭の中では存在している。あるいは、あの人は私の心の中で生きている。このような言い方には人はどこか感傷的な湿った後ろ向きなノスタルジックな感情を読み取ってしまいがちだ。

時にそれを現実逃避だとさえ思う。でも、そのような湿った感情とは別に、頭の中には確実に「それ」がある、ということが言える場合もあるのではないだろうか。

人は必ずしも、目の前に実際にある、目に見えるもの、手で触れられるものだけをリアルに感じているというわけではない。頭の中に刻み付けられたもののリアルは、時には、見て触れることの出来る外の世界のリアルを上回るほどの強さをもってしまうことがある。

それを、単に気持ちの問題だとか幻想だとか言って済ますことは出来なくて、人間にとっては一種の「現実」であると言える。頭のなかに刻み付けられたものは、それが現実世界で失われてしまった時、それは一体どこに「存在」すると言えるのだろう。それは世界を二重化し、人はその重なりつつもズレている二つの世界を同時に生きるのではないだろうか。

自身がかかえているモノローグ、沈黙。意味されたことを目が疑う。引き返す。対象とは別なものを見いだしてそこから遠ざかる。見ることと、在ることの受容。二つの現実を自分の中でうまく包含すること。私の中での課題でもある。


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ジェコメッティは、画家のブラックが亡くなった時に、次のように書いている。


《 ジョルジョ・ブラックが亡くなった。この訃報は、さしあたって、私の精神になんの反響をも呼び起こさない。ジョルジョ・ブラックは、今この時、過去におけると同じように生きている。ここパリの、あるいは海のほとりの、彼の家、彼のアトリエのどこかで、たばこをふかしながら、一つのタブローからもう一つのタブローへと行ったり来たりしながら、ともすれば今まで以上に生きているのだ。私は1930年以来たびたびそうしたように、彼の家で、小さなテーブルの上の一杯のコーヒーを前にして、彼のしゃべるのを聞いている自分自身をまざまざと思い出す。 》__「エクリ」より__







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