2014年11月10日

20141110

目の前に有るものが、ただ物質に過ぎないのに、生き生きとして何かを語りかけてくる。そのようなものと毎日暮らす幸せ。それはものに限った話ではなく、街並や景観も一緒だと思っていて、風景を自らのものとして積極的に取り込むことで、それらに対する興味と美意識を高めようとしているとも言えるのかもしれない。

先月、マドリードに行きました。
スペイン現代美術の巨匠と言われている大好きなスペイン出身の画家Antonio López Garcíaアンニオ・ロペス・ガルシア)が、愛するマドリードの景観を数多く描いているのですが、その中で街の中心部のグランヴィア通りを描いた『グランヴィア』


この場所に滞在中何度か行ってぼんやりと街並みを見ていたのですが、景観というのは何も歴史的建造物やすばらしい自然といった誰もがその価値を認めるような大げさなものではなく、自分が毎日暮らしている周囲にある街並、看板、塀や樹木、電線だったり路地裏や草花などそういったありふれたもののことだという現在78歳の彼のメッセージのようなものを勝手に受け取り解釈をしてきました。
自分の外側にただ客観的な存在としてあるものではなく、それは既に自分自身の一部なのだと。もちろんスペイン建築は私にとっては十分に歴史的建造物です。

この絵はロペスが早朝6時30分の「光」を捉えるためにグランヴィア通りに出向き、1974−81年の7年の時間をかけて描き完成をさせたものです。現在PIAGETはROLEXになっていますが33年前と変わらぬ街並でした。
昨年、文化村ミュージアムでの日本初大規模個展で大感激をたのですが、あの感動は今も鮮明に覚えています。

大切にしている物と同じように、ある人にとって心地よい景観は生命感を持っている。命があるというのは繋がっているということのように、それは過去との連続性であり、また記憶の連続性であり、特定の人と人または人と物との繋がりでもあり、それらが重複して絡み合った複雑さがそこにある。人は身近な道具、住宅、環境を自分の一部として織り込みながら自分の居場所を作り上げる。どんなに素晴らしいとされている器でも、それがどのような場所にどう置かれるか、どう使われるかによって美しくも醜くもなる。このような空間の美しい使い方は日本人の侘び寂びの美意識の中に昔から織り込まれていて、シンプルだけど冷たくない、端正で風通しの良いもの。

当然の事ながら景観を個人が所有する事は出来ない。名物的な景観を除いては、それを保存しようとする法律も規制も日本には皆無と言ってよい。

33年前の絵と変わらず存在する街並に触れた時に、再び開発ラッシュの幕開けをした現在の東京の姿を思う。東京オリンピックも控え、今後は青山通りも生まれ変わり、新国立競技場も出来て第二六本木ヒルズや渋谷桜ヶ丘の再開発、有明周辺のタワーマンションの建設ラッシュ、銀座や日本橋地区も大きく様変わりをする。東京は世界でも類を見ないほど次々に姿を変えていく都市。道なきところに道が出来て、街なきところに街が出来ていく。
そんな再開発、都市開発で変化する東京が好きだったりもするけれど、もしかしたら景観に対する関心がほとんどの日本人には無いのかも・・・と思う事も。もちろん、主義主張を声高々に叫んだり、自分の美意識を他人に押し付けようとするのではない。毎日通る道にあった感じのいい住宅がある日突然取り壊されてマンションに建て替えられた時は心に痛みのようなものを感じる。

失われていくものに対する単なるノスタルジーでもなく、ただ借景という素晴らしい技法や情風景というものを考えたとき、私が窓から見る景色は一体誰のもの、と思う。

マドリードは滞在中の友人達のお陰でとても楽しく過ごせました。感謝です。







2014年6月16日

ないものの(頭の中での)存在

科学者を、真理という大海の海岸で珍しい貝殻を集めて遊んでいる子どもに例えたのは、アイザック・ニュートンだった。
手元にもし一つの貝殻があれば、それを眺めて模様についてあれこれと考えているだけで、時間を過ごすことが出来る。
時間というものは、そもそも常に現在しかないのだという考え方もある。

小津安二郎の映画「宗方姉妹」で、姉役の田中絹代は長年夫と夫婦関係を続けながらも別の男性をずっと思い続けてきた。その生活にそれなりに満足をしていたけれど、耐えられなかったのは夫の方だった。紆余曲折があって、とうとう夫と別れてその男性と結ばれようかという時、突然夫が他界してしまう。

夫の死によってその男性と結ばれることを断念する。この映画の最後で田中絹代は妹役の高峰秀子に言う。
夫が死んでから、ずっと夫から見られているような視線を感じている。夫とはずっとうまくいっていなかったのだが、死んではじめて近くに感じられるようになった。夫が死んではじめて本当の夫婦になれたような気がする。これからはこの夫(の視線)とずっと一緒にやっていく、と。

あるものは頭の中では存在している。あるいは、あの人は私の心の中で生きている。このような言い方には人はどこか感傷的な湿った後ろ向きなノスタルジックな感情を読み取ってしまいがちだ。

時にそれを現実逃避だとさえ思う。でも、そのような湿った感情とは別に、頭の中には確実に「それ」がある、ということが言える場合もあるのではないだろうか。

人は必ずしも、目の前に実際にある、目に見えるもの、手で触れられるものだけをリアルに感じているというわけではない。頭の中に刻み付けられたもののリアルは、時には、見て触れることの出来る外の世界のリアルを上回るほどの強さをもってしまうことがある。

それを、単に気持ちの問題だとか幻想だとか言って済ますことは出来なくて、人間にとっては一種の「現実」であると言える。頭のなかに刻み付けられたものは、それが現実世界で失われてしまった時、それは一体どこに「存在」すると言えるのだろう。それは世界を二重化し、人はその重なりつつもズレている二つの世界を同時に生きるのではないだろうか。

自身がかかえているモノローグ、沈黙。意味されたことを目が疑う。引き返す。対象とは別なものを見いだしてそこから遠ざかる。見ることと、在ることの受容。二つの現実を自分の中でうまく包含すること。私の中での課題でもある。


****************


ジェコメッティは、画家のブラックが亡くなった時に、次のように書いている。


《 ジョルジョ・ブラックが亡くなった。この訃報は、さしあたって、私の精神になんの反響をも呼び起こさない。ジョルジョ・ブラックは、今この時、過去におけると同じように生きている。ここパリの、あるいは海のほとりの、彼の家、彼のアトリエのどこかで、たばこをふかしながら、一つのタブローからもう一つのタブローへと行ったり来たりしながら、ともすれば今まで以上に生きているのだ。私は1930年以来たびたびそうしたように、彼の家で、小さなテーブルの上の一杯のコーヒーを前にして、彼のしゃべるのを聞いている自分自身をまざまざと思い出す。 》__「エクリ」より__







2014年6月15日

林の中を彷徨う

ながいながい時間をかけなければ分からないことがある。揺らぎの幅を知り、変化を楽しみながらも核になるものは変えない、変わらない。
点をつないで、線にかえていく、それを営む力こそが「愛」なのだと。

海岸に流れ着いた流木や河原の石ころ。そんなものにどうしても見惚れてしまって、一度手に取ると離しがたくなる。私もこの石ころのように静かで美しいものを作りたいと思う。だけれど、悲しいことに私の作り出すものはどこまでも人工的なものでしかない。流れる雲、葉、雷、ふりしきる雨、一匹の虫、立ち枯れた木、砂の一粒から満点の星空まで、なぜ自然の全てはこんなにも美しいのかと。そこには命があるからすべてが繋がっている。宇宙にある太陽その一つ一つ、そして生と死という時間すべてが連続してる。

「美しいものとは何だろう」
美しいものを作ろうと思えば思うほど、美しいということの意味が分からなくなり、呆然としてしまう。
何でもないけれど、いいものを作ろうと思っているのだけれど、それはとても難しい。
もちろん答えはすぐに返ってはこないし、そもそも答えなんてない。でもそこから何かが始まって美しいものを探し続けていく。


〈 いつもの道を歩いて 小さな花を見つけた 今朝 すべてがあまりに美しいので この花を君にあげよう 理由もなく何かを美しいと思うこと 僕はそのことにただ感謝しているんだ 〉

ドイツ語の古い詩です。


人は、自由に形を作り出すことが出来ると思っていた。周りを見渡せば人が作り出したもので溢れている。形にはそれが作られた何らかの理由や意味があり、名前がある。そんなたくさんの形あるものに囲まれて私は退屈している。

形があるものには、形になる前のスライム状態の時があって、人はそこから形を作り出す。その時に置き去りにされ忘れられてきたのは、フレームの中に収まっているはずの複雑で多様でつかみ所のない中身。目には見えないけれど、五感のすべてで感じるもの。その中身は目に見える形を超えていろいろなものと繋がりあっている。だから、混沌としているけれど、何か生き生きとしたものが潜んでいる。

最近は、抑えきれない感情を何かに乗せて昇華させることよりも、心を鎮めることによって見えてくる風景に興味を持っている。とはいえ、まだまだその風景は私にとっては時々見え隠れする瞬間の風景でしかないのだけれど。

生きているすべてのものは、流れ去り、失われ、消えていく。誰もその大きな力をくい止めることは出来ないし、それが手の中にあるのも、目に映るのもわずか一瞬のこと。だからこそ、息を止めて、立ちつくすように 見つめ続けたいと思う。

美しいものは、身体を通りぬけてさらに味わい深いものになるのだと。